スピリチャルでアートな日々、時々読書 NY編
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MOMA「精神と物質」展は、草間弥生とルイス・ブルジョワの2つの才能を対比させる
2010年6月19日土曜日
MOMA「精神と物質」展は、サブタイトルが「もう一つの抽象」と題されているように、抽象絵画における第3のあり方を探ろうという展覧会である。その含意は、抽象の2つの潮流、すなわちポラックやロスコのような「アクション・ペインティング」と、モンドリアンのような「構成主義」に対して、より、有機的で特異な形態を追求したアーチスト達を第3の潮流とした上で、その系譜を探ろうというもの。MOMAの企画にしてはずいぶん乱暴な企画だなと、思いつつ、結果的には、草間弥生とルイス・ブルジョワという2人の偉大なアーチストを対比することが出来て面白かった。
ルイス・ブルジョワについては、以前にこのブログで何度か紹介していますが(「ルイス・ブルジョワ展:父娘の葛藤と和解の物語、あるいは女郎蜘蛛の不在」、「ルイス・ブルジョワ追悼」)、父親との葛藤やコンプレックスを媒介に制作を続けた人で、その作品には、独特の性的な強迫観念が現れています。ブログでも触れたように、コンプレックスを媒介に性的強迫観念の色濃い作品を制作したという意味では、草間弥生とよく似ています。しかし、ルイス・ブルジョワが、知性の人、構成の人であるのに対し、草間弥生はより直裁で衝動的な人だというのが僕の印象です。実際、ルイス・ブルジョワの作品は、どんなに性的な要素が色濃く出ていても、最終的にそれはメタファーとして処理されるのに対し、草間弥生は、これをそのままの形で描きだします。これは、作家のスタイルの違いだとも言えますが、二人が抱えた闇の深さの違いだと言えるかもしれません。

ルイス・ブルジョワ「女性の家」

ルイス・ブルジョワ「あなたと私」
実際、草間弥生のトレードマークでもある、初期の、男根にびっしりと覆われたオブジェは、それが男根で覆われているということ以前に、その偏執狂的な反復と密集に驚かされます。あるいは、これも草間弥生のトレードマークである、水玉模様にしても、細かく描き込まれた細胞のような形態にしても、執拗な反復と遍在に圧倒されます。ルイス・ブルジョワの、不安感に覆われつつも、どこかアート作品として成立してしまう知的に構築された作品世界に比べると、草間弥生の作品は、そのような知性が解体してしまって、アーチストという主体すらなくなってしまったにもかかわらず、なにものかの意志が、その不定型なエネルギーの塊に形を与えてしまったような感じです。だから、草間弥生の作品を観ていると、この執拗さを可能にするエネルギーは一体どこから湧き上がってくるのだろうと、不安な気持ちにさせられますし、その作品はスタイルである前に、何かのエネルギーの顕現であるように見えてしまいます。

草間弥生「バイオレット・オブセッション」。男根のようなオブジェにびっしりと覆われたボート。
たぶん、草間弥生のように、深いコンプレックスにとらわれて、衝動に突き動かされるままに制作を続けるタイプのアーチストは、より深い部分の意識、あるいは無意識を使っているために、普通の人では触れることの出来ない世界の深奥部に触れることが出来るのではないでしょうか。だから、時に彼女の作品には、少しぞっとするような感じがしなくもない、不思議なものが描かれます。
僕がもっとも印象的に覚えているのは、ずっと以前に国立近代美術館で開催された草間弥生の初期の作品を集めた展覧会で観た作品です。タイトルは忘れてしまいましたが、長く深いトンネルの向こうからほのかに光が差し込んできていて、その光に向かって人物がとぼとぼ歩いている姿を描いた作品です。それを見たとき、まるで臨死体験をした人が描く死後の世界にそっくりだと思ってぞっとしたことを今でも覚えています。もしかしたら、草間弥生は、実際にこの死後の世界を幻視したのかもしれません。
今回の展覧会でも、不思議な作品が展示されていました。暗い背景にぽっかりと浮かび上がる卵子のようなオブジェを描いた作品シリーズです。有機的な形態が観るもの視線を惹きつける魅力的な作品なのですが、暗い背景の中に浮かび上がるその姿はとても神秘的で、どこか、ここに描かれているものは、生と死のあわいにある存在ではないかという気にさせられます。これもまた、幻視者である草間弥生の死後の魂のポートレイトなのかもしれません。


「精神と物質」展