スピリチャルでアートな日々、時々読書 NY編
スピリチャルでアートな日々、時々読書 NY編
サン・ディエゴでポスト9.11アートについて考える
2009年5月17日日曜日
サン・ディエゴと言えば、まず思いつくのはサン・ディエゴ動物園とシーワールドで、あまりアートについては期待していなかったんだけど、仕事の合間にぶらっと立ち寄ったサンディエゴ現代美術館が結構良いところだったので紹介しておきます。
サンディエゴ現代美術館は、3つの建物からなります。一つは、普通のビルですが、残りはユニークで、一つは、サン・ディエゴのサンタフェ駅の駅舎をそのまま利用した美術館。広い空間で、美術館のすぐ向こうにすぐに線路があって、ちょっとした旅情を味わうことが出来ます。もう一つは、ダウンタウンから離れていたので今回は行けませんでしたが、海を見下ろす崖の上に立てられた美術館で、これも写真を見る限りなかなか良い雰囲気。サン・ディエゴもなかなか捨てたものではないですね。
僕が訪ねたとき、美術館では、シドニー現代美術館のビデオコレクション展をやっていました。オーストラリアのコンテンポラリーアートを観る機会はなかなかないので、結構面白かったです。
印象に残ったのは、Patricia PiccininiのSandmanと言う作品です。
服を着た女性が広大な海を一人泳いでいます。結構波が高くて、女性は波の間に見え隠れしています。最初、カメラは、船上から女性を写しているのですが、やがて、海中に入ります。女性は、海の中に静かに沈んできます。海面は結構荒れているのですが、一度海中にはいると海は穏やかです。心なしか、女性の表情も、おぼれる恐怖感よりも、むしろ海中の静けさの中で平穏を楽しんでいるようにも見えます。やがて、彼女は水中に没し、カメラは再び海上に上がってきます。そのままカメラは切り替わって、砂浜に打ち寄せる波を延々と映し出します。水中に没した女性は二度と姿を見せません。全くナレーションも説明もないまま作品は唐突に終わりを告げますが、水中に沈んでいく女性の残像が心に焼き付いて、静かな余韻を残す作品でした。



Susan NorrieのPassengerという作品も印象的でした。5つの断片から構成されたこの作品は、それぞれが、観覧車や、地下の廃墟や、養蜂場の人々など、一見すると互いに関係ない、ただインパクトのあるイメージを重ねていっただけの作品のように見えますが、じっくり見ていると、自然と人間の関係や過去の記憶、科学文明の問題などが重層的に浮き彫りになってきて、いろいろなことを考えさせる作品でした。こちらも、まったくナレーションも解説もないにもかからず、映像だけで語ってしまうところにアーチストの力量を感じさせます。


でも、サンディエゴ現代美術館の展示でもっとも面白かったのは、9.11同時多発テロとその後の対アフガン戦争、対イラク戦争をテーマにした2人のアーチストの作品展です。
一人は、冒頭に紹介したSandow Birkと言う作家の作品。彼は、古典的な作品のスタイルを借りつつ、これを現代の9.11同時多発テロ以後のアメリカの戦争に舞台を置き換えることにより、歴史と現代の奇妙な混交を目指します。それが、微妙なユーモアを醸し出していて面白かったです。
下の作品は、ゴヤの戦争画に題材を得つつ、グアンタナモの収容所の現実を描いた作品です。確かにスタイルはゴヤの戦争画に似ています。グアンタナモ収容所と言えば、囚人を裸にして女性兵士が性的な侮辱を与えたり、犬をけしかけたり、イスラム教徒の聖典であるコーランを冒涜したり、水責めにしたり・・・と、法治国家では考えられないような虐待・拷問が、対テロ戦という名目でまかり通った場所です。ある種、9.11以降、ブッシュ・チェイニィ体制の下で対テロ戦に突き進んだアメリカの狂気を体現している場所ですが、これを描くのに、同じく戦争の狂気と人間の愚かさを透徹したリアリズムで描いたゴヤの手法を借りてきたところが、ユニークだと思います。

でも、僕が、もっとも深い感銘を受けたのは、JANE HAMMONDのFALLEN(落ち葉)という作品です。この作品は、下のように、落ち葉を敷き詰めただけの作品のように見えますが、実は、本物の落ち葉ではなく、紙をカラープリントして落ち葉に似せたものです。敷き詰められた落ち葉の一枚一枚には、名前が書かれています。その名前は、対イラク戦争で命を落とした兵士の名前です。

作家は、米国兵士が命を落とす度に、落ち葉を一枚制作し、これに兵士の名前を記して、このインスタレーションに加えていきます。実はこの作品、現在も、制作途上にあります。米国兵士が命を落とす度に、作家は、ニューヨークのアトリエで落ち葉を制作し、サン・ディエゴに送ってくるのです。こうして、イラク戦争が継続し、米国兵士の命が失われていく限り、この作品もまた継続し続けるのです。
僕は、この作品のコンセプトと、その色とりどりの落ち葉の絨毯が与える鮮やかな色彩の美しさに深い印象を受けました。この作品は、本当に多義的な意味を帯びています。作家が、落ち葉を一枚一枚制作するのは、追悼の身振りのようにも見えますし、また密やかな反戦の意思表示のようにも見えます。多分、その両方なのでしょう。僕は、声高に反戦を掲げるデモよりも、このように、一人一人の死者を長い時間をかけて追悼することによって戦争に反対すると言う姿勢の方により惹かれます。なぜかというと、この追悼の身振りこそが戦争の本質をあぶり出すように思われるからです。
戦争というのは、何よりも国家が「戦争」という名の下に、組織的な殺人を正当化すると言う事態に他なりません。戦争には、国家戦略や安全保障上の必要性など、様々な大儀が掲げられます。しかし、戦争とは、根本的に合法化された殺し合いなのです。そして、戦争で殺し合い、殺されるのは常に無名の兵士なのです。そこでは、ごく一部の家族や友人をのぞけば、戦死者は、単純な数に還元され、個人の名前を剥奪されます。戦争に反対する人たちの多くも、所詮は戦死者の多さを口にしてその悲惨さを戦争反対の理由にしますが、殺された兵士の一人一人の名前には言及しません。その意味で、戦争は抽象化されてしまいます。これを具体的な現実に引き戻すこと、個別の戦死者の名前にこだわり、一人一人に対して追悼の身振りを継続すること。この行為自体をアートにすることで、追悼の身振りを社会的なコンテクストに移し替えていくこと・・・。これが、この作品のエッセンスです。ここには、コンセプチャル・アートの進化した形があります。同時に、作品の、一枚一枚、丹念に作られた落ち葉の色彩と形態の美しさが、私たちの心を打ちます。

よく、9/11を境にして世界は決定的な変容を遂げたと言われます。確かにその通りだと思います。対テロ戦争が安全保障の中心的な主題となり、文明間の対立が国際秩序の編成軸として大きく浮上し、先制攻撃論が正当化されてしまいました。グアンタナモのような超法規的な措置が容認され、対テロ戦の名の下に一般市民の電話やメールのやりとりが監視され、ビデオカメラによる監視が日常化しました。確かに、世界は、9/11を境に何か踏み越えてはならない一線を踏み越えてしまったかのようです。それでも、世界は動いていき、私たちは生きていきます。9.11以後の変容に抗うのは容易ではありません。なぜなら、それは、日常化し、不可視化されてしまっているからです。そのような絡め取るように迫ってくる権力に対抗するには、もしかしたら、日常世界に非日常性を導入しつつ、徹底的にその個別性・現実性にこだわる現代アートの手法が最も有効なのかもしれません。
サン・ディエゴ現代美術館で観た作品の印象を反芻しつつ、 サン・ディエゴのまぶしい太陽の下を歩きながら、僕はそんなことを考えていました。

Sandow Birk作品「ラムズフェルド国防長官がイラク侵攻計画を説明する」。戯画的なタッチとアメリカ絵画に典型的な古典的構図により、ブッシュ政権を痛切に皮肉った作品