スピリチャルでアートな日々、時々読書 NY編
スピリチャルでアートな日々、時々読書 NY編
Rothko Chapel:瞑想、祈り、対話の空間
2009年5月10日日曜日
テキサスのヒューストンを訪れる機会があったので、ロスコ・チャペルを再訪することにした。
ロスコ・チャペルは、マーク・ロスコが晩年にもっとも力を注いだ作品の一つである。彼は、1964年にこのチャペルの壁画制作の依頼を受ける。彼は、この壁画を制作するために、わざわざその壁画を収容できる大きさのスタジオに引っ越し、作品が完成する1967年までの3年間、ほぼ、この壁画に没頭することになる。
ロスコとという人は、作品に深い精神性を込めようとした人だった。彼は、観客が彼の作品の前にたたずむとき、そこにただの絵画鑑賞を超えた、超越的で神秘的なものとの対話、日常世界を超えた崇高な精神世界に抱擁されるような経験を求めた。これを実現するために、ロスコは、作品のそのものだけでなく、作品が置かれる場所や配置の方法にもこだわった。有名なエピソードがある。ニューヨークのシーグラム・ビルにあるフォー・シーズンズの壁画制作を依頼されたロスコは、作品を完成させるが、結局それをシーグラムから買い戻す。理由は、「自分の作品が、スノッブなフォー・シーズンズの客に、ただの装飾としてしか鑑賞されないだろうことに我慢が出来なかった」から。
ロスコは、こうして、自分の作品がもたらす精神性を信じ、これを極限まで追求していった。さらに、ロスコは、自分の作品を画廊や美術館に売ることすら拒否するようになる。理由は、自分の作品が、他の画家の作品と並べられて鑑賞されると、作品の本質が理解されないというものだった。ここまで徹底した画家は、なかなかいないだろう。ちなみに、フォー・シーズンズのために制作された壁画は、テート美術館とフィリップス・コレクションに展示されている。ここでは、ロスコの意志通り、 それぞれロスコ・ルームとして専用の一室があてられている。
こういうロスコだから、当然のように、ロスコ・チャペルの設計にも口を挟んだ。彼の作品が、最高の状態で鑑賞されるために、彼は、室内に入ってくる光の加減や壁の色、空間の配置にもこだわった。結局、最初にロスコ・チャペルの設計を請け負った著名な建築家フィリップ・ジョンソンはロスコと意見が合わずに設計の仕事を放棄する。その後も建築家とロスコの意見は合わず、2人も建築家が交替することになる。それほどまでに、ロスコは、このチャペルの壁画に全精力を注ぎ込んだ。それは、何よりも、このチャペルが、特定の宗派に限定せず、あらゆる宗教が、ここで祈りと瞑想を行えるようにしたいという依頼者の願いにロスコが深く共感したためである。
Rothko Chapelの前には、水が湛えられ、バーネット・ニューマンの作品「Broken Obelisk」が設置されている。これがまた、チャペルを取り巻く空間の宗教性を深めている。
実際、ロスコ・チャペルは、素晴らしい空間である。まだ5月初旬だというのにむっとするように蒸し暑いヒューストンの戸外から一歩チャペルの中に足を踏み入れると、ひんやりとした空気と、天井から差し込む間接光の柔らかい光に包まれて精神が鎮まるのを感じる。すべての宗教が使えるようにするため、内部にはロスコの壁画以外、一切、宗教的な偶像もシンボルも置かれていない。チャペルは、八角形で、それぞれの壁をロスコの壁画が覆っている。ロスコの作品には珍しく、深く濃い黒、緑、青を基本的なトーンにした巨大な作品である。チャペルには、作品を鑑賞できるように長いすが四角形に置かれており、また、自由に瞑想できるように床には幾つか瞑想用のクッションが並べられている。壁画が架けられている壁はコンクリートむき出しの素っ気ないものだ。天井から外光を取り入れ、これが間接的に部屋全体を照らすように工夫されている。室内の空間に目が慣れてくるにつれ、太陽の光が雲に遮られて微妙に変化していくのに気づく。
最初に入ったときは、八つの壁画はほとんど同じ、深く暗い青だけのように見えるが、室内の明るさに目が慣れてくるにつれ、それぞれが微妙に異なる色彩と陰影を持っていることに気づく。青を基調としたもの、黒を基調としたもの、やや紫が入っているもの。。。。それぞれの壁画は、それぞれ慎ましく自己主張をしている。
ロスコが望んだように、視界全体を絵が覆うような位置まで近づいて、一つ一つの絵をゆっくりと眺めてみる。絵を鑑賞する、と言うよりも、視界全体を覆う絵を感じ、その感覚が自分の内面にもたらす微妙な変化を味わうようにして絵と対話していく。それぞれの絵は、同じように見えながらも、その微妙な変化によって、僕の精神に繊細な差異を引き起こす。そのようにして絵と、自分の内面との対話を続けながら、深い青や黒の色彩の固まりを見つめていると、その巨大な色彩の中にふと引きずり込まれるような、あるいは、そこから何かが放射されて僕の中に入ってくるような、奇妙な感覚にとらわれる。深く暗い色彩が、僕の精神の深奥と呼応して、自分では気がつかないうちに、その深奥の部分が絵と交流をしているような不思議な感覚である。
まだ開館していない朝の早い時間に訪れ、無理を承知でチャペルを開けてもらったのだが、コーディネーターのSuna Umariさんは、快く僕を案内してくれた。しばらくの間、彼女の説明に耳を傾ける。
「ロスコの絵は、あまりにも巨大すぎて、もちろん、入り口から入れることは出来ませんでした。結局、天井からクレーンで一つ一つの作品を入れることになったのです。」
「ロスコは、これらの壁画によって、ここを訪れるすべての人たちが、静かに、祈りと瞑想を行うことを望みました。実際、このチャペルは、すべての宗教に開かれています。キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教・・・。様々な宗教団体がここを訪れて、集会やイベントを行っています。」
「ロスコ・チャペルは、また、様々な宗教の対話の場所でもあります。私たちは財団を設立し、定期的に、世界の宗教的なリーダーを招いてここで対話を行っています。ダライ・ラマ法王猊下、ネルソン・マンデラ・・・、多くの方々がここを訪れ、異なる宗教間での相互理解のために対話を行ってきました。」
彼女は、トルコ出身のキリスト教徒である。もう20年以上も、ロスコ・チャペルで働いているとのこと。これからもここで働くのですか?と訪ねたら、にっこり笑って、「ええ、働ける限り、ここで働くつもりです。私はこの場所を心から愛していますし、この場所は、世界に必要とされているのです。」と答えてくれた。きっと、たいした給料も出ないだろうし、毎日、それほど多くの人が訪れるわけでもないだろう。そのような場所で、ひっそりとロスコ・チャペルを守り、運営している彼女の修道女のようなたたずまいに、僕は感銘を受けた。
ロスコ・チャペルを去るときに、僕は、彼女に、以前ここを訪れたときに購入した一冊の本のことを話題にした。その本は、「Contemplation and Action in World Religions」というタイトルの本で、1978年にロスコ・チャペルによって出版された本である。ロスコ・チャペルの宗教間対話コロキアムの成果をまとめた本で、日本からは、仏教の板東師とイスラム哲学者の井筒俊彦が参加している。僕は、井筒俊彦の「意識と本質」や「意識の形而上学ー大乗起信論の哲学」「コスモスとアンチコスモス」などの著作を通じて、仏教的な世界観を、イスラムからヒンドゥー、道教をすべて包含する東洋哲学の体系にどのように位置づけることが出来るのか、そして、仏教の哲学が、いかに現代哲学における意識や意味の概念を超越しようとするかを学び、深い影響を受けた。その井筒俊彦の論文も掲載されているので購入したのだが、彼女はトルコ出身でイスラム教にも関心を持っているようだったから、もしかして井筒俊彦のことを知っているかと思って話題にしてみたのである。
すると、彼女は、とてもうれしそうに微笑んで、「もちろん、知っています。実は、そのコロキアムは、私の父が企画したものなのです。井筒は、イスラム教の専門家ですが、東洋と西洋の宗教に対する深い知識と洞察を持った人なので、ぜひコロキアムに参加して欲しいと父は考え、直接、井筒に連絡を取りました。井筒が参加することが決まったとき、父はとても喜んでいたのを今でも覚えています。」と答えてくれた。
彼女は、実は、父娘2代にわたり、このチャペルを守り、そして、異なる宗教間の対話を進めてきたのだった。ロスコの想いを深く受け止め、また、父の薫陶を受けながら、このチャペルで働き続ける彼女に、僕は、改めて畏敬の念を覚えた。偏狭な「原理主義」が、世界を覆い、様々な紛争や対立の原因となっている現代社会において、ロスコ・チャペルというささやかな空間が持つ重要性は、ますます大きくなっている。この場所を訪れ、ロスコの壁画に囲まれて瞑想し、祈り、そして対話を行うとき、おそらく、何か、現代社会が抱える問題を解決する糸口が見つかるかもしれない。そのような貴重な空間を支えているのが、彼女らロスコ・チャペルのスタッフ達なのである。
もしも、ヒューストンに行く機会があったら、是非一度、ロスコ・チャペルを訪ねて欲しい。あなたはきっと何かを得ることが出来るはずである。
Rothko Chapel外観。木々に囲まれた住宅地の一角にチャペルはひっそりとたたずんでいる。