スピリチャルでアートな日々、時々読書 NY編
スピリチャルでアートな日々、時々読書 NY編
「抽象かアクションか:ポラック、デクーニン、そしてアメリカ美術1940−1967」展
2008年5月10日土曜日
5番街をアッパー・イースト・サイドの方に上がっていくと、ミュージアム・マイルと呼ばれる美術館が集中する区画に入る。フリック・コレクションから始まって、ホイットニー美術館、メトロポリタン美術館、ノイエ・ギャラリー、グッゲンハイム美術館・・・と国際的に有名な美術館を観ることが出来る。セントラル・パークに隣接しているので、パークの緑を楽しみながら一日好きな美術館をぶらぶらと回るのは、ニューヨーカーの優雅な休日の特権の一つだろう。
そのミュージアム・マイルを92丁目まであがり、そろそろスパニッシュ・ハーレムに近づいてきたな、と思われるあたりにユダヤ美術館がある。常設展は、ユダヤ教徒の歴史を出エジプトの時代からイスラエル建国に至るまで解説している教育施設だが、企画展では、積極的にいろいろなアーチストを取り上げていて面白い。ここで、「抽象かアクションか:ポラック、デクーニン、そしてアメリカ美術1940−1967」という展覧会を観に行く。お目当てはもちろんジャクソン・ポラック。私が、コンテンポラリーアートというか抽象絵画にはまったのは、ひとえにこのジャクソン・ポラックとその同時代の抽象表現主義の画家達、特にマーク・ロスコ、サム・フランシスなどに夢中になったからだ。
ポロック作品「Convergence」。ドリッピングの手法による典型的なアクション・ペインティング作品。
展覧会は、抽象表現主義に理論的支柱を与え、作家達を積極的に擁護した二人の評論家、GreenbergとRosenbargに焦点を当てる。形態の純粋さを追求し、抽象を重んじたGreenbergはポロックを擁護した。これに対し、Rosenbargは表現、制作のプロセスを重視し、アクションに価値を置いて、デクーニンを支持した。二人の評論家は、40年代には共同戦線を張って欧州の抽象に対し、米国の新たな抽象表現主義を顕揚し、プロモートした。しかし、この二人はその後お互いに袂を分かつことになる。もちろん、それはまたポロックとデクーニンが袂を分かつことにもつながる。
展示は、その後の抽象表現主義の歴史的な展開を二人の評論家とアーチストの関係を批判的に検証しつつたどっていく。例えば、女性や黒人のアーチストについて。二人の評論家は、意識的に女性と黒人を批評の対象から外し、その成果を黙殺する。しかし、例えば、ジャクソン・ポロックのパートナーでもあったリー・クラスナーの作品が追求した形態は、その抽象性と運動を純粋の極にまで高めた点で、二人の評論家が目指したものをある意味で達成していたのである。しかも、この評論家達はもちろん彼女と個人的にもつきあいがあった。普遍的な論理を語っているように見えながらそこに隠然と働いている性差や人種に基づく抑圧。
あるいは、批評家の理解に対して敢然と反論したアド・ラインハルトやクリフォード・スティル。彼らは、時に批評家に対して抗議の手紙をしたためる。これに対して批評家は雑誌上で彼らの作品を酷評する。批評家は、運動に理論的支柱を与え、これを顕揚する一方で、家父長的な抑圧者として、女性や白人を排斥し、自らの理論にあわないアーチストを抑圧する。このような抑圧の中でアーチストもまた疲弊するだろう。展覧会では直接に言及されていないが、ジャクソン・ポロックがアルコールにおぼれて自殺してしまうのも、このような抑圧が一つの原因であったのではないかと思われる。
デクーニンの「女」シリーズの一つ。荒々しいタッチと強烈な色彩が、人間の実存の本質を浮かび上がらせる。
それにしても、イェール大学との共催で企画されたこの展示は、作品の質の高さ、視点のユニークさ、展示構成の論理性など、まさにキュレーターの実力の高さを感じさせるものだった。カタログも充実していて、もちろん、図版もすばらしいのだが、論文集とでも言うべき充実した内容だった。
ちなみに、抽象表現主義が米国アートの主要な潮流になった50年代は、またマッカーシズムによる反共キャンペーンが米国を席巻した時代でもあった。マッカーシズムのような偏狭な政治運動は、あらゆる他者を排斥しようとする。それは、例えば、30年代のナチズムが、「退廃芸術」の名の下に当時の新しいムーブメントである表現主義や抽象絵画を抹殺しようとしたのに似ている。このマッカーシズムの時代に、反アートの旗手として活動した下院議員のGeorge Donderoの文章が展覧会で展示されていたので紹介しておきたい。
モダン・アートは共産主義的である。なぜなら、それは歪曲されていて醜く、我々の美しい国に栄光を与えないからだ。・・・・それゆえ、モダン・アートは、反政府的である。そして、作品を制作し、これを顕揚しようとする者は我々の敵である。
大衆を扇動し、常に犠牲となる他者を見つけ出すことで権力を獲得しようとする者はいつの時代にもいる。彼の言葉は、21世紀の現代でも書かれうる言葉だと思われる。例えば、「美しい国」のような言葉は、つい最近の日本でも使われていたことをもう一度私たちは思い出す必要があるだろう。
ポロックの制作風景。広いキャンパスに、絵の具をしたたらせるドリッピングの手法。背後で見つめるのはパートナーで画家でもあるリー・クラスナー。
ユダヤ美術館正面。土曜日はユダヤ教の休日なので休みだが、ボランティアの運営で無料で入館できる。